シガロス、これまでの歴史
シガー・ロスの結成は1994年1月にさかのぼります。バンド名は、バンド結成の数日前に生まれた、シンガーのジョンジーの妹さんの名前、Sigurrósにちなんでつけられました。当初はVictory Rose(勝利の薔薇)、つまりSigur Rósを英訳した名前を使っていましたが、最初の曲のリリース後に、アイスランド語で歌うアイスランドのバンドなのだからアイスランド語のバンド名にしよう、と考えて結局Sigur Rósになったようです。彼らはアイスランド語のほかにホープランド語(Hopelandic、アイスランド語でVonlenska)と名付けられたジョンジー独自の言葉を歌詞に使っています。ホープランド語の定義は「その言葉と一緒になるといい音のするノイズ」だそうで、"Ágætis Byrjun"の中では"Olsen Olsen"があげられます。
結成当初のメンバーはジョンジー(Jón Þor Birgisson)、ゲオルグ(Georg Holm)、アゥグスト(Ágúst Aevar Gunnarsson)の三人。十代だったジョンジーとアゥグストの提案により、アイスランドの首都レイキャビクで結成されたバンドは、1994年スタジオ入りします。ゲオルグは助っ人として共にスタジオ入りしました。
たった六時間で最初の曲をレコーディングした彼らは、それとはまた違った作風の曲、ゲオルグによれば「スマッシング・パンプキンズ風のロック」をやり始めます。さまざまな音楽を模索したあげく、やっぱり最初に録音した音楽スタイルに落ち着くこととなりました。ジョンジーは、他にだれもいないからという理由で(!)シンガー/ギタリストに、ゲオルグはベースに、アゥグストはドラムスとパートが決まり、またアゥグストのクリスマス・プレゼントだったチェロの弓をギターに使ってみたところなかなかの音だったようで、こうしてギターを弓で弾くジョンジーのスタイルが出来あがりました。その前にゲオルグがベースに弓を当ててみたものの、ひどい音しか出なかったみたいです。その最初の曲、"Fljúgðu"を地元のレーベルSmekkleysa Records(Bad Taste)に送ったところ、Smekkleysaのコンピ盤“Smekkleysa i Halfa Old”に収録されることになりました。このコンピ盤は、ビョ−クなどアイスランドのミュージシャンの曲を集めたもので、デンマークからのアイスランド独立50周年の記念に出されたものでした。
最初のフル・アルバムを製作するために同1994年に三人はスタジオに入りました。お金がなかった三人はスタジオのペンキ塗りをすることで費用を稼ぎました。しかし映画を学んでいたゲオルグが一時に学校に戻ったこともあり、アルバム製作は長引きます。またジョンジーは同じ頃別バンドのフロントマンをやっていました。ビー・スパイダーズ(Bee Spiders)というそのバンドはスマッシング・パンプキンズを引き合いに出されるような長めのロックをやるバンドで、どうかと思うようなそのバンド名に比してアイスランドのアマチュア・バンド・コンテストで’95年と’96年に「一番おもしろいで賞」をもらったこともある実力派(!?)。そしてジョンジー自身はジョ二ー・B(Johnny B)と名乗っていたそうです。またジョンジーは’92年から’93年までストーンド(Stoned)というグランジ・バンド(!)のフロントマンをやっていたこともありました。
長いレコーディングの間に曲はどんどん形を変えてゆき、しまいにはバンドはもう一度録音しなおした方がいいのではないか、と考えるほどになっていきました。しかし、そうすると時間がかかりすぎるしいつになったらリリースできるのかわからない、同じ曲を何度も何度も演奏するのにも飽きた、ということで結局メンバーは録り直しをあきらめます。ファースト・アルバム"Von"は1997年9月1日にリリースされました。そのころのメンバーは、長髪でひげをはやしヒッピーのような服装をしていました(証拠写真)。"Von"はアイスランド語で「希望」を表す言葉だそうです。アルバム内の1曲"Leit Ad Lifi"はアイスランド国内で1位に輝き、バンドはその年のブライテスト・ホープと目されるようになりした。
キャータン(Kjartan Sveinsson)は4人目のメンバーとして"Von"のリリースからほどなくバンドに加わります。キャータンは唯一音楽教育を受けたメンバーで、ストリングスのアレンジやギター、キーボード、そのほかの楽器を演奏できました。キャータンの加入はシガー・ロスの音楽性に大きな影響を与えることになりました。
ファースト・アルバムはSmekkleysaによってリリースされましたが、その後SmekkleysaとSkifanが契約合戦を始めます。最終的にはSmekkleysaに落ち着き、シュガーキューブスとの仕事で知られるケン・トーマスをプロデューサーに迎えて、次のアルバムのレコーディングがクリスマスの前に始まりました。彼らのレコーディングの仕方は、まずベースとドラムを基本に置き、そこに他の音を次々に重ねていくというものでした。この方法は多くの時間を要したので、1998年のクリスマス前に発売する予定でしたが秋の時点でそれが不可能と判り、リリース予定は1999年の夏に延期されます。その間、ある雑誌記者の提案によって、アイスランドのミュージシャンによる、ファースト・アルバムのリミックスを出すことになりました。リミックス集"Von Brigði−Recycle Bin"は1998年の8月にリリースされました。アイスランド語で「失望」という言葉を冠したこのアルバムの中には、長引いた"Von"のレコーディング時に録音されつつもミキシングが終わらなかった"Leit Ad Lifi"がバンド自身の手によってリミックスされて収録されています。
そして1999年6月12日、ついにセカンドアルバム"Ágætis Byrjun"がアイスランドでリリースされました。タイトルは同名曲から取られたもので、アルバム中で一番初めに作られたこの曲をメンバーが友達の前で演奏した時の友達の言葉「なかなかのスタート(Ágætis Byrjun)だね」を取って付けられました。アルバム・ジャケットはGotti Bernoftさんによるイラストが飾り、デザインをアゥグストが担当しました。普通のアルバムではブックレットを入れて35アイスランド・クローナ(約60円/’96年)のところを、300クローナもかけて作った力作でした。しかしまだ組み立てられていなかったため、メンバーや友達が集まって「のりパーティー」と称してみんなでアルバムケースの組み立てを行いました。ところがこのお陰でのりがディスクにくっついてしまい、再生できないものが多数出てきてしまいました。ある人の話では10個中まともだったのは1個だけだったとか…。タイトル曲"Ágætis Byrjun"の最後の歌詞はこういうものです。「僕らはわくわくしながら座って自分達の演奏に耳を傾けた…でも音はよくなかった…こう結論に達したよ…次にはもっとよくやろうって…これはなかなかのスタートだよ」
アルバムの発売日、彼らは首都レイキャビクのオペラハウスでコンサートを行いました。そして短時間でソールドアウトしたこのショウをもって、ドラムのアゥグストはグラフィック・デザインの勉強を続けるためバンドを去ることになりました。新しいドラマーのオリー(Orri Páll Dýrasson)とともにリハーサルする間、バンドはしばらくコンサートから遠ざかっていましたが、7月8日のショウから新しいメンバーによるアイスランド・ツアーが9ヵ所で行われました。このアルバムはアイスランド国内で1999年度の最優秀アルバムに選ばれ、またバンドは最優秀バンドに、ジョンジーも最優秀シンガー・最優秀ギタリストに選ばれました。
セカンド・アルバムの発売前から、Smekkleysaはインターナショナル・リリースをしてくれるレコード会社を探していました。数年前、アイスランドでGus Gusのコンサートがあった時にDJをしたイギリスFat Catが前座をしていたシガー・ロスを気に入り、またジョンジーによれば「彼らとは波長が合ったから」Fat Catと契約の運びとなりました。1999年12月、Fat Catから"Svefn-g-englar(夢遊病者、またEnglarは天使の意)"が発売されます。その一週間前、"Svefn-g-englar"はNMEにシングル・オブ・ザ・ウィークに選ばれました。その後デンマーク、イギリスをツアーするようになり、バンドについての記事が各国に載るようになります。
2000年4月、"Ný Batteri(新しいバッテリー)"がイギリスでリリースされ、また3月と4月に正式のイギリス・ツアーが決定し、ゴッド・スピード・ユー・ブラック・エンペラー!とのツアーや、オール・トゥモローズ・パーティーズに出演しました。9月にレディオヘッドのツアーの前座を務めると、シガーロスへの注目度は一挙に高まりました。そしてこの年は記念すべき初来日の年でもあります。8月5日富士急ハイランド、8月6日大阪コスモスクエアでのサマーソニックのセカンド・ステージに二番手として出演しました。私(まゆ)の記憶によるとそのときのセットリストは、"The Nothing Song"と呼ばれていた新曲("Untitle4")、"Svefn-g-englar"、そしてこれも当時新曲の"The Death Song"(Untitle7);でした
こうしてバンドへの注目が高まると、まだレコード契約のされていないアメリカでは、シガー・ロス獲得に向けて7つのメジャー・レーベルと8つのインディー・レーベルが熾烈な戦いを繰り広げました。最終的にはバンドはUniversal傘下のMCAと契約します(ちなみにフランスではPIASと契約している模様)。アメリカでのアルバム発売は2001年5月16日。そしてセカンド・アルバムのワールド・リリースのあと、アイスランドのMosfellsbærに、スイミング・プールを改造して彼らは念願のスタジオを建設しました。
そして10月3日にAVEXから"Ágætis Byrjun"の日本盤が発売され、ついに2001年10月、初の日本ツアーが行われました。東京、大阪、名古屋と3都市のクラブクアトロで行なわれたツアーではほとんどが新曲でした。この年から日本でもかなり知名度が上がってきてはいましたが(Sleepwalkersもこの年開設されました)、この来日では雑誌やテレビでも大きく取り上げられてさらに多くの人をひきつけたと筆者は記憶しております。
2002年10月、長く待たれた彼らの3rdアルバムが発売されました。タイトルは記号"( )"。全8曲は無題、歌詞はすべてジョンジーの造語のホープランド語、歌詞カードにはクレジットはなく、彼ら自身が撮影した自然の草花などがモノクロで印刷されているだけという、ミニマリズムをおし進めたアルバムとなりました。彼らの言葉によると、聴いた人が想像力で歌詞を考えてくれればいいとのこと。このような斬新な(というか、CD注文する時何ていうのでしょうか……)アルバムにも関わらず、アメリカをはじめ世界の国々のチャートで軒並み高位にランクされ、いまやSigur Rósは『アイスランドから出てきた実験的バンド』から『世界的バンド』へと認識されるようになりました。
2003年、4000人規模の会場をソールド・アウトにさせたヨーロッパ・ツアー、そして6000人規模の会場を含むアメリカ・ツアーを経て4月再び日本へやってきました。完全招待制の品川グローリアチャペルでの特別コンサートと1500人規模の国際フォーラム2日間を含む東京・大阪での3日間の日本ツアー、合計4日間のステージでした。ここでは新しいアルバムに加え1stからの曲や2ndからの曲も演奏され、また後ろには映像も流されるなど前回来日時とは違った新しいライヴでした。照明も凝っていましたが、東急ハンズで買った和紙を貼って作った手作りの物もあったそうです。夏はグラストンベリーはじめいくつかのフェスティバルに出演した後、しばらく休暇に入るそうです。
これらの文章は、2000年に書かれたものに2003年7月新たに訂正・加筆したものです。
文責:まゆ
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Sleepwalkers,a Japanese Sigur Rós website